1.三増合戦とは
永禄12年(1569)10月6日、現在の神奈川県愛甲郡愛川町の三増地区周辺で、甲斐国(現在の山梨県)の武田軍と相模国(現在の神奈川県)の北条軍との間で行われた合戦です。関東に進攻してきた武田軍は、小田原城を攻めた後に甲斐国へ帰還しようとしていました。帰路である三増付近で待ちかまえていた北条軍との間で激戦となりましたが、これを退けて甲斐国へ帰還を果たしました。この戦いは「三増合戦」「三増峠の合戦」などと呼ばれます。
2.三増はどんなところ
合戦場の旧跡は、愛川町指定史跡「三増合戦場跡」として整備されており、愛川町三増1183-3付近には「三増合戦場碑」という記念碑があります。
三増合戦は“山岳戦”であったとも言われますが、合戦が繰り広げられた三増は相模国と武蔵・甲斐両国等を繋ぐ街道沿いでもあるため、狭隘な峠道や急峻な山道だけではなく、少し開けた土地も点在します。「三増合戦場碑」があるのは、志田沢・深堀沢・栗沢という三つの小川に挟まれたなだらかな土地です。この記念碑がある「三増合戦場跡」では、武田信玄が本陣を構えたとされる山や合戦場となった周辺の様子を感じていただけるでしょう。
3.誰が戦ったのか
三増合戦は甲斐国の武田軍と相模国の北条軍とが争った戦いです。
この当時の甲斐国は、武田信玄(武田晴信)が支配していました。武田信玄は近隣の信濃国(現在の長野県)や上野国(現在の群馬県)などにも勢力を拡大し、越後国の上杉謙信(上杉輝虎)とは川中島で何度も合戦に及びました。
一方、この当時の北条氏は、氏康から家督を受けついだ氏政が関東平野の大部分の支配を安定させつつありました。
武田氏と北条氏は、今川氏も加えて互いに同盟を結んでいましたが、武田信玄が今川氏の領内へ攻め込んだことによって、この同盟関係も破綻します。今川氏を救援するために北条氏も武田氏と戦うことになり、武田氏と北条氏との間で三増合戦が起きることになります。
4.状況の推移
永禄12年(1569)
9月28日 北条氏領内へ攻め込んだ武田軍、小田原郊外の酒匂川近くまで進軍。
10月1日 武田軍、小田原城下へ侵入し民家や社寺に放火する。
10月4日 “鎌倉の鶴岡八幡宮へ参詣する”と称して武田軍が小田原から退却する。
10月5日 武蔵国方面から迎え撃つ北条軍が三増付近で武田軍と対峙する。
10月6日 三増合戦。明け方から始まった合戦は、はじめ北条軍の優位で推移するが、
武田軍が押し返し、北条軍の追撃を退けて三増峠を越えた。
10月7日 三増峠を越えた武田軍は甲府への帰路に就く。
5.合戦の経緯
起
- 天文23年(1554)、甲斐国の武田信玄、相模国の北条氏康、駿河国の今川義元は、互いの姻戚関係を通じて同盟を結びました。
しかし、この同盟関係は、永禄3年(1560年)に今川義元が戦死し(桶狭間の戦い)、今川氏内部に動揺が生じたこともあって、亀裂が広がっていきます。 - 武田信玄が今川氏領内に侵攻する野心を隠さないようになると、永禄10年(1567)には今川氏も武田氏への物資(塩や魚介など)の輸送を打ち切りました。
やがて、永禄11年(1568)12月に武田軍は駿河国への侵攻を開始します。武田軍に攻められた今川氏の当主・氏真は、駿府(現在の静岡市)の城から掛川へ逃れました。 - 武田軍が駿河国へ侵攻すると、その翌年の永禄12年(1569)1月に北条氏康は今川氏救援の軍を送り、武田軍との間でにらみ合いとなりました。
このにらみ合いは、越後国の上杉謙信や遠江国の徳川家康らの動きを気にした武田軍が、4月に退却して収まりました。 - 駿河国を攻略したい武田信玄は、まずは今川氏を支援する相模国の北条氏を牽制する必要がありました。ここに、甲斐国の武田軍と相模国の北条軍が激突する理由があります。
承
- 同年(1569)6月、武田軍は北条氏の領国である伊豆国(現在の静岡県伊豆地方)へ攻め込みました。武田軍は退却しますが、これに対して北条氏は大軍を差し向けて駿河国東部から伊豆国の守りを固めます。
- 駿河国東部から伊豆国は、北条氏の本拠地である小田原の西側に当たります。北側や東側の守りが手薄になったとみた武田軍は、同年(1569)8月下旬に甲府を出発し、現在の群馬県碓氷峠を越えて北側から北条氏の領内へ攻め込みました。
- 途中で氏康の子・氏照が守る八王子の滝山城を攻めますが、容易に落ちないと見て囲みを解くと、小田原への進軍を続けました。相原、橋本、上溝(いずれも現在の相模原市)を経て厚木に至り、その後、増水していた酒匂川を越えて10月1日には小田原へ攻め込みました。
- 守りが手薄な北条軍は小田原に籠城しました。武田軍も無理にこれを攻めることはせず、10月4日に“鎌倉の鶴岡八幡宮へ参詣する”という偽情報を流しながら、小田原から退却します。
武田軍は、平塚付近で甲斐国の方向である北に進路をとりました。 - この武田軍の動きを察知した北条軍は、武田軍が三増峠を越えると判断しました。そこで迎え撃つべく、氏康の子である氏照・氏邦、一門の綱成らの率いる軍勢を三増に向かわせました。
転
- 北条軍の動きは武田軍も把握していましたが、三増で待ち受ける北条軍が氏照・氏邦らであることを聞いた信玄は“当主である氏康親子が出陣しても自分には敵わないのに、家中の者どもだけならば自分が勝つだろう”と確信したといわれます。
- 10月5日、武田軍は現在の厚木市域の反田付近で中津川を渡り、金田の牛窪坂から依知原に出て、付近の北条側の土豪と小競り合いをしながら三増へと進んでいきました。
- 武田軍を迎え撃つ北条軍は、先に三増に到着したものの、小田原城からの本隊到着前に武田軍が来たため、一度、半原台地に移動して態勢を整えようとしました。この間に武田軍は三増の高地に陣を敷き、ひときわ高い山に信玄の本陣を示す旗を立てたといわれます。
- 10月6日、態勢を整えた北条軍が高地に陣取る武田軍に攻めかかり、三増合戦がはじまりました。
- 北条軍は、攻撃を受けた武田軍の一部が山に登るのを退却と見て取り、一気呵成に攻めかかっていきました。戦況は北条軍の優位に進み、激戦のなかで武田軍の侍大将である浅利信種が討ち死にしています。北条綱成の部隊が放った鉄砲に胸を撃ち抜かれたのだと伝わります。また、北条氏照の部隊も志田原で武田勝頼や馬場信房らの陣を攻め立てていました。
- 劣勢の武田軍のなかで、先に峠を登っていた山県昌景らの率いる部隊が山の向こうで引き返し、志田沢沿いに下って北条軍へ攻めかかってきました。これに合わせて、信玄の旗本の部隊も北条軍に対して正面から反撃に出たことにより、形勢は逆転していきます。
- 武田軍の反撃を受けた北条軍は総崩れとなり、中津川を越えて半原山へ逃れていきました。北条氏照も乗馬が倒れたために自害を覚悟するほどであったと伝わりますが、家臣に助けられて半原山へ逃げ込んだといわれます。
- このとき、小田原から北条氏政率いる北条軍本隊が荻野新宿まで来ていたものの、三増での敗戦を聞き及び、小田原へ引き返しました。
- 三増で勝利した武田軍は、北条軍を深追いせずに串川から反畑(いずれも現在の相模原市緑区)へ抜け、その翌日に甲府へ退却していきました。
結
- この戦いの結果、北条氏は今川氏を救援するための援軍を送ることができず、武田氏が駿河国への侵攻を進めることになりました。また、氏康の死後、北条氏は武田氏と和睦し、再び同盟関係を締結しています。
三増合戦絵図
江戸時代に描かれた三増合戦の絵図で、陣立て図ともいいます。多くの絵師が三増合戦陣立て図を描いていますが、どの構図にも二つの共通点があります。一つは、相模川と中津川に挟まれた三増地区を、主戦場として極端に拡大して描くことです。二つめは、一枚の構図の中に小田原城までを無理に描き込むことです。
また、町域内に存在したとされる田代城は、どの絵図にも描かれていません。
6.関連史跡
史跡三増合戦場跡
愛川町は、昭和44年(1965)、三増合戦から400年を記念し、合戦場の一角を整備して公園化し、記念碑を立てました。敷地内には、合戦の様子を示す解説板や両軍対峙の状況を示す絵図などが設置されています。
【三増合戦場】
田代城址と八幡社
田代城は、北条氏の家臣内藤氏の居城で、伝承では、三増合戦の時に武田方の火矢を受けて焼け落ち、再建されることはなかったとされています。その鎮守神とされる八幡社は、現在は愛川中学校裏の丘にたぶの木に囲まれて鎮座しています。
【田代城址と八幡社】
首塚と胴塚
四千人にも及ぶと伝わる両軍の戦死者を、どのように葬ったかは伝わっていません。志田道と町道との分岐点の丘の上を昔から首塚と称していますが、弘化2年(1845)に不動尊が建てられてからは不動堂とも呼ばれるようになりました。宝永3年(1706)9月に建てた傍らの碑には、当時、この辺に戦死者の幽霊が出没するので念仏供養したと刻まれています。なお、道を隔てた志田沢沿いに胴塚と呼ぶ塚があります。昭和のはじめ、小刀一振が出土しました。
【首塚】
【胴塚】
浅利墓所と浅利明神


三増金山原の丘の上にあります。元禄13年(1700)3月、曽雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という人が主人牧野備前守の命により、この地を検分した折、自分とゆかりのある浅利信種がここで戦死したことを知って「浅利墓所」と刻んだ石碑を建てました(下段左写真)。その後、寛政元年(1789)に村人が墓の側から小さな瓶を見つけ、その中の骨を浅利信種の遺骨だといって丘の下に埋め、別の碑を建て、覆屋を設けました。これを「浅利明神」とか「浅利さま」と呼び、戦前までは詣る人も多く、立願成就の時は木の太刀を納める慣わしでした。
【浅利墓所と浅利明神】
武田信玄旗立松蹟址碑
三増合戦のときに武田信玄が本陣を敷き、「風林火山」の旗を立てたと伝わる松の木がありました。
大正12年(1923)に枯れてしまいましたが、それを惜しんだ地元高峰村青年団が昭和3年(1928)に建てた石碑が残っています。撰文は、日本紋章学で名高い宮ヶ瀬出身の沼田頼輔です。この石碑も、ゴルフ場の建設に伴い、実際に松があったとされる位置から東に100mほど離れた場所に移設されています。この場所に、三代目となる松が植えられています。
【武田信玄旗立松蹟址碑】
志田沢
合戦に先立って峠を登って津久井のほうへ向かっていた武田軍の山県昌景が、この沢沿いに下って北条軍へ反撃を仕掛けたとされる。幾千人とも知れない死傷者の血が流れて沢となったという伝承から、「チダサワ」という別称が伝えられています。
【志田沢】
隠川(おんがわ)
北条氏の家臣内藤秀行らが逃げ隠れ、落ち着いたと伝わるところで、隠家と呼ばれていたという伝承もあります。また、ここから上流にあたる原下の対岸のあたりには、北条軍の敗残兵たちが逃げ場を失って中津川の河原に飛び降りたという伝承も残されています。
【隠川】
信玄道
厚木市下川入の六本松あたりから愛川町中津、高峰地区を経て三増峠一帯を越え、旧津久井町(現在の相模原市緑区)長竹から反畑に出る古道を「信玄道」と呼ぶことは、天保期に書かれた『新編相模国風土記稿』にも記載されています。屈曲が少なく、いかにも軍勢が押し通ったような感じがあります。所によっては「信玄にげ道」と呼んでいます。愛川町立愛川東中学校付近の県道脇に、愛川町教育委員会が設置した「信玄道」の標柱があります。写真右側が現在の県道、左側が旧道の「信玄道」です。
【信玄道】
7.ここだけ情報
どれが「三増峠」?
愛川町の西方に、北から西へ三増の山並みが連なっており、これを越えて甲斐国(山梨県)へ抜ける道には、三増・中・志田の三つの峠があります。そのうち最も高く険しいのが中峠であり、武田信玄はこの峠の近くに聳える松に本陣旗を立てたと言われます。ただし、戦国期には、こうした峠道を総称して「三増峠」と呼称していたようです。写真は現在の三増峠登り口です。
【三増峠】
【中峠】
【志田峠】
信玄が本陣旗を立てたのは中峠なのに、合戦の名称は「三増合戦」?
合戦の直後に北条氏康が上杉輝虎(謙信)へ送った書状に、北条氏の領内である相模国(現在の神奈川県)と武蔵国(現在の東京都)の境目付近で武田信玄と合戦に及んだことが記されており、そこを「三増山」と称しています。現在では三増・中・志田の三つの峠で構成される一帯を「三増山」と呼んでおり、現在の中峠付近に本陣旗を立てたとされる信玄が率いる武田軍は、この一帯で北条軍に勝利しました。このため、「三増合戦」という名称が広く知られることになったのでしょう。
北条軍が逃げ込んだ半原山とは?
現在の愛川町に「半原山」と称する山はありません。
現在の三増地区から中津川の方へ下ると、角田地区・田代地区と呼ばれる地域です。三増での合戦に敗れた北条軍は、我先に中津川を渡ろうとして多くの兵がこのあたりで溺死したと言われています。
三増地区・角田地区・田代地区から中津川を挟んだ対岸には、経ヶ岳、仏果山、高取山などの山々が、現在の半原地区へかけて連なっており、「半原山」はこれらの山々の総称であったと考えられます。
なお、半原地区の隠川は、北条氏の家臣であった内藤秀行らが逃げ隠れ、落ち着いた場所であると伝えられています。また、その隠川から中津川を少し遡った原下と呼ばれる地域の対岸のあたりには、北条軍の敗残兵たちが逃げ場を失って中津川原に飛び降りたという伝承も残されているなど、現在の半原地区にも三増合戦に関わる伝承が残されています。