2021年7月14日㈬NHKBSプレミアム/BS4Kの番組「英雄たちの選択」(午後8時~)で「戦国最大の山岳戦・三増峠の戦い〜北条氏康VS.武田信玄〜」として取り上げられます!
時は戦国、永禄12(1569)年。戦国大名相模国北条氏と甲斐国武田氏の軍勢が、三増の地で激闘しました。
激闘は、「三増合戦」と呼ばれ、日本史上に愛川町の地名が登場した一大事件でした。
激闘を物語るかのように、一帯からは、刀や槍、鉄砲の弾などが出土し、たくさんの史跡や伝説も残っています。
「歴女」のみならず、歴史ファンなら一度は訪れてみたい広大な史跡。隠川や龍福寺などの観光スポットも、三増合戦に縁があります。
三増合戦の戦死者は、北条方3,269人、武田方900人とも言われています。
かつての戦場には大きな石碑が立ち、毎年10月にはここで、「三増合戦まつり」が開催されています。
三増合戦に関する史跡は他にも!
この場所以外にも、石碑や案内板などを見ることができます。その一部を紹介!※太字の史跡名をクリックするとGoogleマップにリンクします。
武田信玄の旗立松の碑
ゴルフ場「東名厚木カントリー倶楽部」内にあります。いったん半原台地に退き、態勢を整えようとした北条方の隙をついて、武田信玄が陣を敷き、旗を立てたという言い伝えが残っています。当時の老松が枯れたことを惜しんで、昭和3年(1928年)に石碑が建てられました。見晴らしが大変よく、ハイキングコースの一角になっています。
浅利明神と浅利墓所
金山原の丘の上にあります。戦死した武田方の侍大将、浅利信種が祀られ、墓所に埋められた遺骨は信種のものといわれています。戦前までは参詣客も多く、立願成就のときは木の太刀を納めるならわしでした。
首塚
農村環境改善センターの近くにあります。弘化2年(1845)に不動尊が建てられてからは、「不動堂」と呼ばれるようになりました。宝永3年(1706)に立てた傍らの碑には、この周辺に戦死者の幽霊が出没するので、供養したと刻んであります。道を隔てた沢沿いに、「胴塚」と呼ばれる場所があり(案内板あり)、昭和のはじめに小刀一振りが出土しました。
八幡社
愛川中学校裏の丘にあります。この地にあった田代城は北条方の家臣内藤氏の居城で、三増合戦のとき焼け落ち、再建されることはなかったといわれ、内藤氏の守護神の八幡社が昔を今に伝えています。
下記の住所・MAPは「史跡 三増合戦場碑」のものです。他の史跡等は、太字の史跡名称をクリックし、リンク先のGoogleマップにてご確認ください。
※「史跡 三増合戦場碑」に駐車場はありません。
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