観光スポット

北条氏VS武田氏激闘の地。三増合戦場跡

2017.12.15

時は戦国、永禄12(1569)年。戦国大名相模国北条氏と甲斐国武田氏の軍勢が、三増の地で激闘しました。激闘は、「三増合戦」と呼ばれ、日本史上に愛川町の地名が登場した一大事件でした。激闘を物語るかのように、一帯からは、刀や槍、鉄砲の弾などが出土し、たくさんの史跡や伝説も残っています。

「歴女」のみならず、歴史ファンなら一度は訪れてみたい広大な史跡。隠川龍福寺などの観光スポットも、三増合戦に縁があります。

三増合戦の戦死者は、北条方3,269人、武田方900人とも言われています。

かつての戦場には大きな石碑が立ち、毎年10月にはここで、「三増合戦まつり」が開催されています。

 

この場所以外にも、石碑や案内板などを見ることができます。※太字の史跡名をクリックするとMAPにリンクします。

東名厚木カントリー倶楽部内にある「武田信玄の旗立松」の碑。

いったん半原台地に退き、態勢を整えようとした北条方の隙をついて、武田信玄が陣を敷き、旗を立てたという言い伝えが残っています。

当時の老松が枯れたことを惜しんで、昭和3年(1928年)に石碑が建てられました。見晴らしが大変よく、ハイキングコースの一角になっています。

金山原の丘の上にある、浅利明神と浅利墓所。

戦死した武田方の侍大将、浅利信種が祀られ、墓所に埋められた遺骨は信種のものといわれています。

戦前までは参詣客も多く、立願成就のときは木の太刀を納めるならわしでした。

農村環境改善センター近くにある、「首塚」の案内板。

弘化2年(1845)に不動尊が建てられてからは、「不動堂」と呼ばれるようになりました。宝永3年(1706)に立てた傍らの碑には、この周辺に戦死者の幽霊が出没するので、供養したと刻んであります。道を隔てた沢沿いに、「胴塚」と呼ばれる場所があり(案内板あり)、昭和のはじめに小刀一振りが出土しました。

愛川中学校裏の丘にある八幡社。

愛川中学校の地にあった田代城は北条方の家臣内藤氏の居城で、三増合戦のとき焼け落ち、再建されることはなかったといわれ、内藤氏の守護神の八幡社が昔を今に伝えています。

下記の住所・MAPは「史跡 三増合戦場碑」のものです。他の史跡等は、太字の名称をクリックし、リンク先のMAPにてご確認ください。